The start.





ひとには始まりがある。ひとには歴史がある。
海に囲まれたこの海都で、何かを背負わぬまま生きている者など居るわけがない。
なぜなら此処は戻る事叶わぬ、留まる事赦されぬ、大樹に縋るしか術を持たぬもの達が集まる、運命の都。
ひとの数だけ生まれては消えていく物語の、ほんの、一端。
大樹に抱かれし海都、アーモロードに辿り着くまでに至る、その経緯を語ろう。








*知り得た涙
*対峙、それから別れ
*奴隷の見た夜明け
*英雄には遠い
*さよなら私
*出稼ぎセディ君の決意
*家出娘
*海賊に始まり海賊に終わる
*騎士の誉れ
*ベリーシュ日記
*彼の煙草の味
*眼下に広がる海都
*姉さんと僕の生きる道
*空っぽの我が家
*才能とプライド
*ロマンの匂い、波乱の風、再会の予感
*生きる意思





































血に、塗れていた。
ぼんやりと、ただぼんやりと、男は東の空を見た。
血に、塗れていた。
赤い、そう、赤い、暁の空。
「ジェイザー……見えるか。夜明けだ……」
腕に抱く、”家族”に、彼は声をかけた。
血に、塗れていた。
共に生きてきた家族の一人、骸となった友の返事を、彼は待った。
「…………綺麗だなあ、そう、おもうだろ」
返事は、ない。
「…………」
大剣を握る手にずっしりと伝わる、肉を切る重い感覚が残る指で、男は何も映さぬ友の眼を、そうっと隠した。
再び東の空を見上げ、彼方に腰を据える山の輪郭が光になぞられていく様子をじっと見つめる。
――――そして、太陽は昇った。
優しい朝日は焼けた空を従えながら、敵も味方も生者も死者も、広がる血の海も、墓標の如く大地に突き刺さる剣も、夥しい数の骸も、そしてはたはたと翻る国章が刻まれた白い旗も、等しく包みこんだ。
強い風が吹き込み、血で固まった男の黒い髪が舞い上がる。
「…………もう……やめよう」
生まれてこの方冷たさを宿し続けていた傭兵の瞳に、初めて涙が浮かんだ。

これは、漸く歩み始めた、傭兵の話。





液体のように揺らめきながら光を閉じ込める、眩暈さえ覚えるほど艶やかな刀身が、女の鼻先に突きつけられた。
「はっ……は……お前はッ、一体……!」
畳の上に膝を付き肩を上下させ、乱れた黒紅の長髪を垂らしながら、額に幾つ物汗を浮かべる彼女は、それでも明らかな殺気を孕んだ瞳で、目の前の焦茶色の髪の毛の青年をきっと睨めつけた。
青年は満足そうに目を細めると、くつくつと喉の奥で笑う。
「くっくっく……今更知ったところで、もう手遅れだ。安心しろよ、一気に喰いはしねえからさぁ。じわじわと意識の端まで喰い尽して、最後には俺の全てを以って支配してやるからよ」
かっと女が怒りに目を剥き、刀を跳ね除け短刀を手に男に飛びかかろうとする。しかし手負いの女が適う訳もなく、彼は下卑た笑いを顔面に貼り付けたまま、容赦なく彼女の腹に蹴りを入れた。
女は岩でも飲み込んだかのような重圧な衝撃を腹に受け、空気が抜けるような声とは言い難い音を後引かせながら男の足元にどさりと倒れる。
霞む視界に移る、口の端を吊り上げ赤く邪悪な光を目に潜ませるその姿は、最早彼女の知る青年のそれではなかった。
彼女が長年使えてきた、端整な顔立ちに優しくも強い色を乗せた主の顔の面影など、何処にもなかった。
「コイツも俺様に身体を使ってもらって、さぞ光栄に思っているだろうよ。諦めるんだな、コイツはもう、俺のモンだ」
主と同じ顔でそんなことを吐くこの男が憎くて憎くて仕方がなかったが、身体が鉛のように重く、指一本動かすことさえ出来ない。
悔しさと情けなさが胸に溢れ、途端に目頭が燃える様に熱くなるのを、彼女は感じた。
青年が彼女の頭に手を伸ばし、ぐいと前髪を無理矢理引っ張り挙げる。そのまま止めをさそうと、脇に転がった刀を取り上げる。
その時、緩やかな凹凸を空に描く山々の裏側から、金色の太陽が眩い光を世界に投じた。
青年は自らの顔に光が射すのを認めると、げっと面倒くさそうな声を上げた。
「チッ……朝か。覚醒する頃だ、一度引っ込むとするか――――」
掴まれていた前髪が離され、女の頭が畳の上に落下する、その直前。
そこで、彼女の意識はプツリと途切れた。
――――その耳に残るは、悪魔の笑い声。

これは、主を探し救い出さんとする、忍の物語。





馬小屋の如く粗末な狭い小屋に響くのは皮の鞭の音。一体何回聞いただろうか。
他人事のように考える彼の体に、それは空を切り裂く音を立てて打ち込まれた。
痩せた身体が激痛に戦慄くが、彼の眼は赤黒く濁ったまま揺らぐことはなかった。
「生きている価値もねえくせに! 使ってやっている俺様の命令も聞けねえのか! 家畜如きが! 人の顔をしよってッ!!」
身に付けるものだけは立派な、汚い顔をした太った男が、もう一度彼の身体に鞭を叩き込む。
皮を破り肉を抉る、あまりにも強いその衝撃に、既にガタがきていたのだろう、彼の両手首にはめられていた枷の鎖が、音を立てて壊れた。
同時に支えを失った身体は、汚れた藁の上に落ちる。畜生の糞尿の匂いが鼻を突いた。
「チィッ……使えねえな」
そう呟くと、奴隷商人はぶくぶく脂肪をたくわえた手で彼のくすんだ金色の髪を掴み上げ、そのまま部屋の奥へ引きずっていく。
足枷の先の鉄の塊が立てる音が、いやに耳障りだな、と彼は思った。
低い天井から無造作に飛び出る金属の出っ張りに鞭が掛けられ、彼の両腕がきつく縛り上げられる。
皮膚が破れ、じんわり血が滲み出すが、男も彼もそんなこと気にも留めない。
「俺様の言うことにも従えない畜生以下のお前に遣る飯はねえ。せいぜい死なねえように足掻いてるんだな!」
ぐははははと下品な笑いを響かせ、男は小屋を出て行った。
――――こんなもの、なくたって、おれは逃げないよ。
頭の片隅でそう言うと、同調するかのように手首の鞭がぎしりと軋んだ。
――――あの男が起きて、気の済むまでおれに鞭を入れて、しばらくしたら奴隷を売りに行って、酒を飲んで、帰ってきたら、またおれに鞭を入れる。
彼の一日はそれの繰り返しだった。変わるものなど何もない。強いて言えば、細い身体に刻まれる、裂傷の数くらい。
もう、眠ろう。今日はなんだか、疲れた。
そう思い、いつも通り彼は眼を閉じようとする。
――――そこに飛び込む、瞳を劈く様な強い光。
「……?」
突然訪れた”変化”に、彼はゆっくりと、紅い眼を向ける。
彼が見たものは、眩しいほどに輝く夜明けの太陽を湛えた瞳だった。

これは、来るはずのなかった夜明けを知った、奴隷の話。





「…………」
少女は大層機嫌が悪かった。手にしていた紙の束を、脇のテーブルにばさりと投げる。
くるくると見事にカールした紫陽花色の髪の毛が、ゆり椅子が前後するリズムに合わせて揺られ、物憂げな瞳は窓の外に向けられる。
広い部屋には彼女一人。家具は豪華という言葉がぴったりな天蓋付きベッド、精巧な細工が施された化粧台とテーブル。
彼女が座る焦げ茶色の質素なゆり椅子は、輝かしい周りの家具に比べれば大分見劣りしたが、彼女はこのゆり椅子がとても気に入っていた。
それに体重を預け、ふう、とため息をつく。
「ふふ……この私が自己嫌悪だなんて、大分、堪えていますわね……」
手を額に当てながらしみじみと自嘲気味に言うと、懐に手をしのばせ、一枚の封筒を取り出す。
由緒正しき騎士一族の家紋で封をされた手紙。言葉で伝えるだけでなく、律儀に書き記してきたのは、彼女の部下である宮廷歩兵軍隊長。
二度も別れの言葉を認める事が出来ずに、渡されてから数日立つと言うのに彼女は封を切っていない。
唇をきゅっと引き結び、少女はゆっくりと立ち上がった。
真東に向く窓からは、溢れんばかりに朝日がなだれ込んでくる。それを全身に受けて、彼女はすっと前を向いた。
もしも彼女を真後ろから見るものが居れば、その姿は正に、勇ましく戦場に向かう英雄のように見えたことだろう。
しかし彼女は英雄でもなんでもない。ただの、少女だった。
「私にもそれが……分かりましたわ」
瞳には憂いを浮かべて、しかし口の端は不敵に上げられる。
「もっと強く……私一人で、国を守れるように……より強く、強く……貴方一人、背負わすわけには行きませんわ」
にこり。未だ幼さが垣間見える顔で、少女は朝日が包み込む、この世界に向かって微笑んだ。
王国の第一王女が失踪したと大騒ぎになったのは、その翌日のことであった。

これは、戦うための強さを渇望する、王女の話。





最後に自分の眼で見たのは、ゆらゆら揺らめく海の色。次に目にしたのは、機械仕掛けの人形達。
「貴方は深王様のおかげで再び生きることを許された。身体の機能の殆どは、生身のそれと同じように使えるだろう。ただ、一つだけ、伝えておくことがある――――」
みるみるうちに、自分の心が絶望の色で塗りたくられていくのが、機械の体でも十分に感じられた。
目覚めた直後に言われた言葉を、私はきっと、一生忘れない。
あ、ああ、と声を出してみるものの、それは一定の音を奏でることしか出来なかった。
どれみふぁ、そらしど。
奏でなかった。心はこんなにも絶望の痛みを訴えかけ、作り物の目頭が熱くなる感覚さえあるのに、しかし喉から絞り出されるのは、最早――――。
「……貴方を助けるにはこうするしかなかった。辛うじて心臓と脳の損傷は殆どなかったが、その代わり、身体と声帯が、酷く傷つけられていた」
傍らで黒髪の少女が、電子の声帯を通してで言う。その声に、確かに潜む、音の階段。
「あ、あ、ああああああ――――――ッ!!」
抑えられない叫びが、壊れた声帯から飛び出した。
冷えた涙がぼろぼろと頬を伝う。
これはうその涙だ。作り物の涙だ。そして、私も……。
――――涙は、あったかいでしょう? 悲しいものなんかじゃ、ないのよ。
そう言ってくれたのは誰だったのか、もう私には分からなかった。

これは、夢と引き換えに二度目の生を受けた、少女の話。





朝、目が覚める。
頭が覚醒しないままに台所から安っぽい豆スープの匂いが漂ってきて、露骨に顔をしかめる。勿論、母さんや父さんの前じゃ、こんなことしない。
のろのろとした動きで動きやすい格好に着替えて、居間に向かう。
ほーら、ビンゴ。やっぱりね。今日の朝食は、一杯の豆スープと、堅くて不味いパン。
明日も、明後日も、これからも、ずーっとこのメニュー。
「……父さんは?」
兄妹たちの分を用意する母さんの背中に向かって言えば、此方を一瞥することもなしに、外よ、と言った。
「そう」
いつもどおり。僕はスプーンに手を掛けた。
一体何時からこんな生活が始まったんだろうか。一体何時までこんな生活が続くんだろうか。
罰といえばそうなんだろうと思う。祖父がしてきたことを、今僕たちがされているだけ。
小さな村だ。周囲の人々から嫌われれば、それだけ生き難くなる。協力し合わなければ食べていけないのだから。
そう、罰だ。でも、僕たちまでそのとばっちりを受ける責任なんで、どこにある?
勝手にいざこざ起こして、勝手に逝っちまった無責任なじいちゃんに文句の一つでもいってやりたいが、死人に罵倒したところで虚しいだけだ。
北へ出稼ぎに行った姉ちゃんからの仕送りは、何時まで待っても来なかった。
目的地へ行く途中で死んだか、僕たちを見捨てたか。どちらも考えたくなかったから、自分ひとり生きるので精一杯なのだと、僕は勝手に決め付けた。
どちらにしろ、頼みの綱は消えたんだ。じゃあ、どうする?
「父さんの手伝いをしてくるわ。セディ、皆を起こしておいてね」
影を落とした笑みをこちらに向けて、母さんが出て行く。その背中を僕はじっと見つめ、きっとこれが最後だろう、と思った。
沢山の弟や妹達が未だすやすやと寝息を立てて寝ているのを確認してから、前々から用意してあった鞄を手に取った。
今やれるのは、僕しか居ない。

これは、何もかも貪欲に欲する、少年の話。





「な、な、な、なんだってええええええええええ!!!!」
なんだってえええー……んだってえええー……だってええー……えええー……えー……
山々に轟く彼女の声を聞いて、びくりと動物達が身を震わせるが、当人はそんなこと知りもしない。
「なんだよ……なんだよ……直ぐ帰ってくるって言って置きながら、一年もあたしを一人で山荘に放っておいて……!」
艶の良い赤毛を後ろで一つに結んだ少女は、ぼろっちい紙切れを手に、わなわなと震え出した。
「寂しかったのに……寂しかったのに……自分達は勝手に大冒険!?」
ぷっつん。少女自身、確かにその音を聞いた。
「ふ、ざ、け、ん、なあああああああああ!!!!!!!」
ギャアギャアギャア……
山の何処かから、怯えた様な烏の泣き声が聞こえてきたが、やはり当人はそんなこと気にしない。
「ずっと……ずっと! 待ってたのに! 二人が帰ってくるの、待ってたのに……」
強気な声音に、時折鼻をすする音が混じる。気付けば少女は涙を瞳一杯にためていた。
ぽろり、一粒、零れ落ちそうになるのを堪えて、乱暴に服の裾で拭う。
そうしてキッと空中を睨むと、
「もうこんな家、出て行ってやるうううう! ばっかやろおおおおおーーーーーーーー!!」
誰も居ない山荘から、小さな鞄を持って家出する子供の如くと飛び出した少女の行く先は、未だ、決まっていない。

これは、共に歩む仲間と出会う、少女の話。





身体が一瞬空中に浮かび上がる。
目の前に広がるのは、蒼い蒼い空。綺麗だなあと、我ながら暢気に呟いた。
直後、甲板に背中を強かに打ち付け、カモメが首を絞められたときのような声が、不本意にも惨めったらしく漏れた。
立ち上がろうとするが縛られた手足は全く言うことを聞かず、そうしている内に、バンダナを巻いた男に頭を思い切り踏みつけられた。
ぐあんぐあんと脳が揺れ、声も出すことが出来ない。衝撃でぼろっちい髪留めが吹っ飛んで、深い海の色をした自分の髪の毛が顔にかかった。
ざあざあという波の音を背景にして、おれを囲む男達が嘲る。
「なんだァ? こいつ、すんげー弱いぞ」
「フェデロの副船長って言うからよう、どんなヤツかと思えば……こんな腰抜けだったのか」
「だっから結局は俺らに殺されることになるんだよ。クソみてえなヤツばっかじゃねえか」
その意見には諸手を挙げて同意だーと胸中で呟く。と思ったら、ぐり、とより強い力で床に押し付けられた。
きつく身体に食い込む縄が軋み、左のわき腹と右の太ももの傷から、じわりと血が滲むのを感じた。
……あーおれ、死ぬのかな。つーかアホだよなあおれ、海賊に捕まるの何回目だよ。ていうか何で何時も何時もこういう海賊ばかりなんだよ。
そういえばフィルハルモアの奴等、どうしてるかなあ。どうにか生き延びててほしいなあ。おれのことなんて忘れていいからさ、生きててほしいなあ。
何かが頭に浮かんでは、じくじくと痛む傷に遮られて、また他のことが頭に浮かぶ。支離滅裂な思考は、結局何の結論も生まないままただ垂れ流されるだけ。
「あー……眠い……」
意味もなくちょっとこぼしただけなのに、突然別の男がおれの腹を蹴り上げてきた。胃液と赤黒い血が混じった汚い液体が飛び散る。
既に何度も殴られたり蹴られたりされて血だらけの頬に、小型のナイフが戯れるように押し付けられた。
「おいテメー何余裕ぶってんだよ、今から俺らにヤられるんだぞ。 分かってんの?」
「やめとけやめとけ! びびって気が狂っちまってんだろ!」
ぎゃはは、と汚い笑い声が酷く耳障りだった。
――――さすがにこいつらなんかにヤられるのは、癪、だよなあ?
頭に浮かんだ自分への問いに、口の端を少しだけ引き上げることで、返してみせる。
それが目に付いたのか、今までにたにたとおれを見ていたこの海賊団の船長らしき髭面の男が、おれの首を掴んで、そのまま締め上げた。
ひしゃげた声が上がるのが、我ながら情けない。
腕に釣られたまま身体が甲板の外に出されると、ざあざあという波の音が、一層近く聞こえた。
「何が可笑しい? あン?」
意識が飛びそうだった。でもな、こっちにだって意地がある。
「――――さぁな」
最高に不敵な笑みを浮かべてやって、おれはそいつの胸を蹴り飛ばした。
首を絞める手が離れて、一瞬間をおいてから、海に、どぼん。
徐々に視界が青に染まっていく。奴らから解放された事に曖昧な嬉しさを感じながら、身動きが取れないままに青に飲み込まれていく。
――――もう海賊なんてこりごりだ。今度行き着く先は、船の上じゃなくて、陸の上がいい――――――

これは、生き汚くとも生きていく、青年の話。





幾度と無く、この大広間に足を運んだ……。
そう思いながら、赤い布張りの椅子に体重を預けて、胡桃色の髪の毛の男は目を閉じた。
王宮の大広間。入り口から真紅の絨毯が奥の王座に向かって真っ直ぐ伸びて、それに沿う様にして高い天井を支える円柱が立つ。
部屋の両脇に並ぶ大窓からは、昼時の眩しい光が細工を施された窓枠の形をそのまま冷たい床に映し出している。
見上げればシンプルながらも気品を匂わせる金のシャンデリアが輝くが、この陽光が燦々となだれ込む時間帯では大した役割を果たしていないようだった。
初めて此処へ来たのは何時だったか、あまりの美しさに足がすくんだものだと、男の脳裏に懐かしい記憶が薄らぼんやりと浮かぶ。
どれくらいそうして居ただろうか、玉座脇の比較的小さな扉が開き、召使を従えながら見知った顔の王女が現れた。
王女は男の顔を見ると悲しそうに顔を歪め、目を伏せながら玉座の隣の椅子に座る。
手を上げて召使を下がらせると、彼女は男に向き直った。
男と王女の視線が、交錯し、絡み合い、ぶつかる。
それに居た堪れなくなり、男は口を開いた。
「……姫様、私ごときに時間を裂いて頂き、有難う御座います」
王女に向かって、男が絨毯に深く跪く。
王女は目を閉じて、座りなさいと静かな口調で言うと、そのまま言葉を継いだ。
「……緊急の用事とは何ですの?」
男はゆっくりと顔を上げて王女の瞳を見つめた。その色は不安げにたゆたっているようで、しかし芯はしかと定まり、男の次の言葉を待っている。
反対に男の瞳はどのように揺れていたのだろうか。
姫様の前で情けない顔をしていなければいいのだが、と男は願った。
「…………今日まで、姫様にはお目にかけていただき、本当に有り難く思います。貴方のおかげで、私は生きることが出来た。貴方の直属軍として動くことが、何よりも誇りでした」
「遠まわしな言い方を私が好まないのは知っているでしょう? 言うなら、言いなさい」
冷たい、否、冷たさを装おうと震える声で、王女は言い放った。
もう一度、男は彼女の高貴なる瞳を見る。
愚かで身の程知らずの自分は、この瞳を裏切ることになるのだと思うと、心が酷く痛んだが、彼は言葉を続けた。
「……今日を持ちまして、私は宮廷歩兵軍隊長を辞させて頂きとう御座います」
沈黙が降りる。しかし王女は動揺した様子も無く、最初から分かっていたかのように、一度だけため息をついた。
「それは、責任を取る、という意味で?」
「はい」
「貴方に責任は無いわ。私が指示を誤ったのです。全ては父様の仰る事を聞かず、無理矢理貴方の軍の指揮総官に着いて付け上がった私の責任ですわ。貴方が責任を取る必要など何処にもありません」
「姫様、全ては私の責任です。姫様が指揮をしようとも、それが状況に適していなければ改めるのが私の役目です。貴方のミスではない。私が見誤ったのです。
 死んでいった同胞達への報いが、辞することだけで果たせるとは思っておりません。ただ、自分の中でけじめをつけたいのです。故に私は、この王国から立ち去ります」
王女の瞳は相変わらず同じ色を宿している。何を思っているのか、それは男が知るところではなかった。
「貴方の決意は……変わらないと言うことね」
「はい……申し訳ありません」
王女の前で男が再び跪く。それを見た刹那、今まで平静を装っていた彼女の瞳に何かがこみ上げたのを、男は一生知り得ることは無い。
「いいわ、ダヴラス。その想い、私が見届けましょう。
 ――――今この瞬間を持ちまして、ダヴラス=ヴィルフォンドの第一宮廷歩兵軍隊長の称号を……剥奪いたします」

これは、全てを抱えて生きることを決めた、騎士の話。





『じつはベリーは見ていたのです。おにいちゃんがおうちを出て行くのを!
 ベリーはいつもどおり、早起きをしました。おにいちゃんの次に起きるのが、ベリーのきまりです。起きたらおにいちゃんに頭をなでなでしてもらうのがベリーの決まりなのです。
 だからベリーはおきて、おなかもぺこぺこだったので、お豆のスープがのみたくて、お台所にいったのです。
 そしたらなんと、おにいちゃんがおっきなリュックを持って、お外に出て行ってしまったのをもくげきしたのです!
 ベリーはびっくりしました。だからいそいでお外に出ておいかけようとしました。
 でもなぜか、おにいちゃんは見つかりませんでした。おとなりのイーダおばあちゃんがお馬さんのくるまに乗って、たくさんの藁をはこんでいくのが見えただけでした。
 おにいちゃんは、消えてしまったのです!
 ベリーはとってもとっても悲しかったです。なでなでしてもらえないとおもうと、ないてしまいそうなのでした。
 だけどベリーはみつけました! お豆のスープのとなりに、おにいちゃんの手紙があるのをみつけたのです!
 ベリーにはまだきちんと読むのはむずかしかったです。でもベリーはがんばりました。もしかしたらおにいちゃんが行ったところがわかるかもしれないからです。
 そしてベリーはあーもろうどという文字をみつけました。あーもろうどといえば、このあいだおとなりのおとなりにすんでるピニアちゃんとそのむかいのトミーくんのおはなしのなかに出てきたなまえです。
 ”うみ”というものが近くにあるとききました。おにいちゃんはそこにいったのかもしれません!
 ベリーはそのお手紙を隠しました! ベリーが一番さいしょにお手紙をみつけたということは、おにいちゃんを見つけるしめいを負ったのはベリーだということになります!
 その夜、ママは泣いてて、パパは悲しそうでした。おにいちゃんがいなくなっちゃったからだと思いました。ベリーもとても悲しかったです。
 だからベリーは、その次の日! パパやママに内緒で、おにいちゃんをさがしにいくことにしました。
 一人で見つけたら、きっとえらいえらい、って頭をなでなでしてもらえるにちがいないからです!
 こうして、ベリーのだいぼうけんは、まくをあけるのだろうなあと、ベリーはわくわくしながら思ったのでした!』
 ――――――『ベリーシュの日記』より

これは、兄の背を追う、少女の話。





暗い部屋、暗い心。この闇に出口なんてないと、あの時あの瞬間、知った。
石造りの壁に背を凭れる。この年中熱い海都に相応しく、石の壁はすうっと身体の熱を吸い取っていった。
手に握るのは、彼が愛用していた煙草。ポルカと言う、マイナーな煙草だ。
やけに作りのいい葉巻箱を開ける。暗闇の中で手間取ることもなく、まるで何かに導かれるかのように、それを取り出す。
手に馴染む、ざらざらした感触。一体この巻物のどこが美味いのかと、常々不思議だった。
口に咥えると泥の味が広がった。当たり前だ。だってこれは血と泥の中から、私が救い出した彼の唯一の遺品なのだから。
そうあの日、遠い昔のように思える、あの日。たった、数週間前、彼は確かに私の隣に居たのに。
「逃げろッ!!」
樹海の圧倒的な力を前にして、私達のパーティはあっという間に半壊した。
一発も放たぬままに壊された弩を意味もなく抱えながら、パーティの状態を把握する。
開幕眠らされたウォリアーとモンクが真っ先に攻撃を受け、その時点で夥しい出血。そのまま戦闘を続行した今、二人とも今にもばたりと倒れてしまいそうだった。
攻撃をかわしつつじりじりとFOEにダメージを与えていたシノビは、乱入してきた別のFOEに不意打ちを喰らい利き腕を食いちぎらる重症。
彼らを守ろうと盾を振りかざす彼の体力も、既に限界だった。
アイテムが尽きかけ、一度帰ろうというタイミングでの襲撃。
既に全員理解していた。これは、負ける戦いだと。
これまで、と思い諦めかけたとき、彼は、敵の前に立ちはだかり、私達に向かって言った。
「逃げろッ!!」
そう、そして私達は彼を残して、命辛々海都に帰還した。
瞬間的に悟った、彼との永遠の別れ、その衝動が私に、手を伸ばさせた。
――――血だらけの葉巻箱を持って、見上げた空。
空の中心に燦燦と輝く長閑な太陽が、ぶち壊してやりたいほど憎かった。
その憎しみが心を支配してからこの暗い部屋に引きこもるまでのことは、あまり覚えていない。
時々やってくるゲドの私を心配する口ぶりから考えて、記憶が曖昧な部分の私が相当狂っていたという事はなんとなく分かった。
「…………」
ポケットから何処にでもあるようなマッチを取り出す。
しゅっと擦ると、火が燃える形容しがたいあの匂いが鼻を掠めた。
そのまま灯火を咥えた煙草に近づける。息を吸うと、途端に肺に充満する煙の味。
「……っう……く、げほっ……」
あまりの不味さに咽返る。苦い、とても苦い味。
こんなものの、何故彼は好き好んで吸っていたのだろうか。
――――その答えは、今後一生聞ける機会はない。
途端に、涙が溢れてきた。拭うことさえできずに、口の中までこぼれた雫が、苦い煙草の味と混ざって気持ちが悪かった。
「う……あっ……あああ、い、ぁああぁぁあぁあぁああぁぁああぁあ……!」
いっそ天まで届いてしまえ。この執念深い慟哭よ。

これは、失うも歩み続ける、女の話。





ぴー……ひょろろろろ〜〜……
長閑な鳥の鳴き声が青々とした森の中に響いて、道端の石に腰掛ける、榛色の長い髪の毛を後ろで一つに結んだ長身痩躯の青年の耳に届いた。
爽やかな響きとは対照的に風馬の月はとても暑く、空の天辺に位置する夏の太陽の光が、じりじりと青年の肌を焼いた。
大きな丸眼鏡の奥の切れ長の青い瞳が、暑さを呪うかのように忌々しげに太陽を睨む。
時折吹き抜ける澄んだ風がせめてもの救いか。手の甲で汗を拭って、青年は腰に下げていた布袋から葉っぱに包まれた握り飯を取り出した。
真っ白な握り飯を一つ手にとって、一口ほおばる。
(もう半年……)
すっと眼を細めながら、青年は思った。
彼が長年住んでいた山荘に妹弟子を一人残して旅に出てから、既に半年が経っていた。
寂しがり屋な彼女が泣いていないだろうかと思うと、彼の胸は張り裂けんばかりに痛んだ。
彼女に対する申し訳なさが急にこみ上げてきて、彼は眉根を寄せて顔をしかめた。
(早く帰ってやらねば……)
一刻も早く自分の目的を果たし、山荘に帰る。それを念頭に置くことを確認してから、彼は再度布袋に手を突っ込み、一枚の紙切れを取り出した。
「師匠……貴様の居場所を、遂に突き止めてやったぞ……」
ぐしゃり、と紙を握り締める。
青年が旅に出た目的――――それは、己が師匠を抹殺すること。
彼が山荘を出る数ヶ月前に行方をくらました師についての情報は殆ど掴めず、さながら目的地もなく彷徨い歩く放浪者の如く旅を続けていた。
しかし彼は、とうとうある町の情報屋から、師の所在を突き止める大きな手がかりを得た。
「お兄さんの言う容姿にそっくりなヤツが、海都アーモロードで快進撃を続けるギルドに所属してるっぽいぜ」
「何故一介のギルド員の容姿など把握しているんだ」
「実はねえこのギルド、裏では色々やってるらしいんだわこれが。真っ当な道を進むばかりじゃ名を上げられないってことかねえ。だから様々な方面から情報を集めてくれって頼まれんだよ」
「確かな情報なのか」
「おいおいお兄さんよ、オレは情報屋だぜ? 情報は信憑性が第一。アンタの言う探し人と、容姿に加えて仕草や言動も合致するからな。けっこーカタい情報だと思うぜ」
今まで山荘から出たことのない青年には、正直情報屋の提供するものを信じていいのかは分からなかった。
しかし今までその影すらも靄に隠れていたものが、やっと尻尾を出した。そう思うと、頼りにしてみるのもいいだろうと思えた。
そうして手に入れた、嘘か本当かも分からない情報を頼りに、彼は今、その山道からアーモロードを見下ろしていた。

これは、真意を隠し恩人を殺めようとする、青年の話。





「本当に大丈夫なの? 樹海は甘くないってちゃんと分かってる? お姉ちゃんだってすっごく苦労したんだからね。ウィルビノさんの指導がなかったら、あたしは今もきっと臆病なままで……」
「大丈夫だって! 姉さんこそ、ギルドの皆さんに迷惑かけないようにね。まだまだ怖がり直ってないんだから」
「な、な、言われなくたって……大丈夫だもん、もう守られるだけじゃないからっ」
数ヶ月前まで、何かあれば弟である自分に助けを求めていた弱くて強い姉さんが、本当の意味で強くなっているということを実感して、僕は思わず笑みを浮かべてしまった。
「あんたばかにしてるわねっ! あ、あたしだってやればできるんだから。次合った時には、樹海を制してるんだからね!」
「はいはい。楽しみにしてるよ。僕の活躍も期待しててね。きっと名を上げてくるから」
じゃあ、と姉さんに背を向けようとしたとき、いきなり手を引かれてそのまま姉さんに抱きしめられた。
僕のと同じ質、同じ色をした栗色の髪の毛が頬をくすぐる。
「……絶対に、死んじゃダメだよ。生きてまた……また絶対合うんだよ」
震えた声で姉さんが言う。少しだけ眼を伏せて、僕も姉さんを抱きしめた。
「泣き虫は卒業したんじゃなかったっけ」
「……う、うるさいっ泣いてなんか、ない、ってば!」
ぎゅうと身体を包む手が一層強く抱かれた。
そんな姉さんが愛しくて、あはは、と笑った後、
「……僕も姉さんとはなれて生きていくのは不安だよ。でも、樹海で冒険する姉さんを見て、僕もそうやって生きてみたいって思ったんだ。
 だから、ごめん。これだけ許して、姉さん。大丈夫、絶対帰ってくるから」
姉さんの背中を、赤ちゃんをあやすみたいにさすりながら、穏やかな口調で言った。
「……ノラン、生意気」
「知ってるってば」
お互いをきつく抱き合いながら、ふふ、と笑う。
視線を上げれば、涙をたっぷり溜めながらも溢さまいとする優しい姉さんの瞳にぶつかった。
僕の背中に回す腕を解いて、姉さんは言った。
「行ってらっしゃい!」
姉さんの頬を、一粒だけ涙が零れ落ちたけど、それを見ぬ振りをして、僕は笑って言った。
「行って来ますっ!」

これは、姉の様に優しく生きようとする、少年の話。





幾つもの国々が複雑に絡み合う、三年にも渡る戦争が終わった。
終結後の面倒くさい責任問題なんかに巻き込まれるのは御免だから、金だけ貰ってさっさと軍を抜けた。
共に戦った友と別れ、この街を目指し10日間歩き通した。
三年ぶりに辿り着いた、俺の町。
丁度三時のおやつの時間だったから、俺は愛する妻と娘のために、ここいらで一番高いケーキを買って、逸る気持ちを抑えつつ岐路に着いた。
鞄のそこに埋もれて久しく手にすることのなかった家の鍵を取り出し、施錠を解く音を聞いたとき、改めて俺は帰ってきたんだ、と感じた。
そうして家の中に入って、まず最初に目にしたもの。リビングの中央に配置された安い大テーブル。それにかかっている小さな花が散りばめられたテーブルクロス。その上の、埃を被ったメモ。
そのメモにはぞっとするほど冷たい字で、つらつらとこの家を捨てる旨が綴られていた。
まあつまり、永久に実家に帰らせていただきます、ってえことだ。
それを読んだときに、愕然としているはずなのに、心のどこかでまあ当然だな、と思ってる自分に気付く。
だってさ、考えても見ろよ。家族に手紙も送らないような、戦うことしか知らない冷たい男なんかと、一緒に支えあって生きていたい女なんて、居るわけないだろ?
何時終わるとも分からない戦争で人を殺しまくってる男の存在に付きまとわれて生きるよりも、そんなヤツのことなんて忘れて幸せに生きていたほうがいいに決まってる。
その選択が妻と娘にとって一番幸せになる方法だったのなら、そう考えると、それでよかったと思えた。
「……とは言っても、どうすっかねえ……」
汚れた服のまま、ぼすんとソファーに座り込む。溜まっていた埃が舞い上がって鼻がむずむずした。
母子の私物以外の、家具や生活必需品や俺の私物はそのまま残してあるらしく、それが一層この家に寂れた雰囲気を持ち込んでいるように見えた。
とりあえず、煙草を一服。たしか分けてもらった高い葉巻があったはず。
ポケットの中をまさぐると、若干つぶれてはいるものの、何時も吸ってる安っちいヤツとは明らかに違う葉巻が出てきた。
火を灯し、肺を煙で一杯に満たす。
「……これからなにすっかなあー……」
ふーっと煙を吐き出し、ぼそりと一つ呟く。
妻と娘が出て行ったということは、俺がこの家に帰る意味は無くなったわけだ。
ていうかさすがの俺だって愛した元家族がかつて住んでいた家に独りで住むのはちょっと嫌だった。
「……どうせなら好きなことしてみるかー……だが当てもねえしなー」
もう一度、煙を大きく吸って、深く吐き出す。
うーん、この葉巻、高いだけあって、なかなか上手い。そんなことをぼんやりと考えて、はたとあるヤツの顔が浮かんだ。
「そういやあ……ゲドのやつ、世界樹に挑むとかなんとか言ってたな」
軍内でも一番馬が合った戦友であるゲディモートも、帰る家も行く当てもないからどうせなら冒険してやると、海都アーモロードに向かう船のチケットを見せられたのを思い出す。
今となっちゃ、俺もアイツと同じ状況。それなら、ついて行っちまえばいい。意外と傷心気味なこの気持ちも、癒すことが出来るだろう。
何と無しに芽生えた冒険への好奇心が少しずつ膨らんでいくのが分って、思わず笑みがこぼれた。

これは、好奇心の赴くままに挑む、男の話。





我等占星術師一族の始まりは、一頭のユニコーンだという。
ユニコーンはその額に生える白銀に光る角に夜空の力を集め、大地に月と星の輝きを齎すと伝えられている伝説上の生物。
はるか昔太古の時代、我等の先祖であるユニコーンが夜空の力を自らの意思で有用する方法を見つけ出し、月と星の恩恵を支配し始めたという。この技術が後の占星術である。
夜空の力を自由自在に操る術を得たユニコーンに、ユニ、ステラ、ギャリア、テラの四人が弟子入りし、その技術を受け継ぐことになる。
夜の天空を有したユニコーンも寿命に抗うことは出来ずに死んだ後、弟子達はユニコーンの肉を喰らい、その身体に宿る力までをも手に入れようとした。
そうして力の継承を受けたこの四人の弟子が、今現在占星術の名門と呼ばれるユニ家、ステラシェイリー家、ギャリアンキシィ家、テラ家の初代当主となり、占星術を後世にまで伝えていく役割を負うこととなった。
弟子の中でもユニは特に占星術の才能に秀でており、ユニコーンを喰らった際により強大な力の継承を受けることになったのも彼だという。無論それは彼の血が流れる子孫にも言えることだといえよう。
つまりは、ユニ一族の現当主の長男である私は、他の一族の長子よりも優れているということだ。
「安心しろ、リゲル。ステラシェイリーのガキに占星術師学校の主席を奪われたからといって、お前が宮廷占星術師になることは変わりない」
父上は言う。”たかが”と。
私は優れている、はずなのに、その”たかが”ステラシェイリーの小娘に負けた。
それならば、私は一体何なのだろうか?
それを聞くと、父上は何時も不機嫌になる。
「そんなことを気にするな。お前は運悪く負けたんだ。まぐれであの小娘が主席を取ったからと言って、我等ユニ一族の名声が失われるわけでない」
まぐれではない。それは、一方的に競ってきた私が一番知っている。あの小娘は、血筋はともかく能力は私を上回っていた。
しかし誰もが知っている。私はユニ一族の時代当主。私は優れている。
それ故に、私はあの小娘と同じ舞台で同じ勝負をし、自らの力で打ち負かしてやらなければ、納得ができないのだ。
小娘に力を見せ付けず、父上の意向で宮廷占星術師になることには我慢ならなかった。
「……お前はまだ理解していない様だな。私は”気にするな”とは言ったが、”許す”とは言っていない。いいか、これ以上我等一族の名を汚す様であれば――どうなるか、分るだろうな」
汚物でも見るかのように、己の息子である私を蔑む目。
予てから私は、この男が嫌いだった。
「……チッ」
頭を冷やして来いと半ば無理矢理に父上の部屋から追い出され、そのまま町の大広場へ降りてきた。
昼下がりの大広場では市場が開かれていて人通りが多く、見ているだけでも気分が悪くなりそうだった。
しかし何となく人気の無いところへ行くのも嫌で、柄にも無く安っぽい林檎などを買ってみたりなどして、それを齧りつつベンチに腰掛けた。
占星術師発祥の伝説が残る土地故に、この国では占星術師は皆位が高いものとして扱われている。
そのような地位にずっと居たためか、父上はしばしば、私の目の前でこのように賑わう者たちを”惰星者”と呼ぶ。
曰く、「星の加護を受けられなかった下等な者達」ということらしい。
正直な話、馬鹿だと思う。
あの男はただ自分の血筋の栄光に縋っているだけで、今の今まで一度も自分の力というものを見せた事が無いということを、私は知っている。
私達一族は優れている。それは確かなことだ。だが、それを証明もせずに他者を公然と見下すのは如何なものか。
誇りを掲げるために、他者に力を見せ付けることは、優れている者の義務ともいえるだろう。
だから私は自分の力を見せ付けるために、自分の力で打ち勝つために、なんとしてもあの小娘と同じ舞台で戦わねばならない。
「……クソジジィが……」
一口だけしか齧っていない林檎を握る手に力が入る。が、長年自室に籠り切り、筆を握ることしか知らない腕の力など知れたもので、直ぐに力が抜けてしまう。
酒でも飲んで帰ろう、そう思い苛々と立ち上がったその時、聞き慣れた声が聞こえてきた。
「ねえ、アルデバラン。アーモロードってどういうところなの?」
「この国の遥か南に位置する、美しい南の都です。きっと師匠もお気に召されると思いますよ」
反射的に振り返れば、例のステラシェイリーの小娘と、その弟子らしき青年が、大きな荷物を担いで町の出口へと向かっていた。
(あの方角……まさか、町を出る気か!? いいや、宮廷占星術師学校への入学試験を控えたこの時期に、ステラシェイリーの当主がそんなことを許すわけが……ただの外出か?)
しかし二人の荷物はただの外出と考えるにはどう考えても大げさで、まるで長期旅行でもするかのような量だ。
(アーモロード……最近になって冒険者稼業で栄えだした南国……まさか、あやつ迷宮で己が腕を磨くつもりか!? バカな!!)
確かに占星術師学校で学ぶよりも、実際の戦場で経験を積み重ねるほうが遥かに多くの事を学べるだろう。
(だが、ステラシェイリー家は我が一族には劣るといっても、占星術の名門。その技術を外界へ持ち出しかねない様な事を、果たして当主が許すだろうか――)
そこまで考えて、自身の中に芽生えるどうしようもない興奮に気付く。
未知の樹海、隠された多くの知識、日常では到底経験し得ない多くの物事―――――そんなことに、私の中の知識欲が膨れ上がった。
「フン……小娘、貴様にだけそのような経験はさせんぞ……何処までも追って行ってやろう。そして、必ず貴様を超える―――!」
私は優れている。故に、その時、父上に決められた道など歩かず、あの小娘と同じ舞台で戦うことを決めた。

これは、誇りを掲げるために力を求める、青年の話。





「夕暮れ前のこの時間の海はいいなぁ。いっそ宴会でも始めたくなるよ」
金茶色に染まりかけた彼方の空から吹き付ける海風を受けて、編み上げられた赤い二尾を持つ骸骨のマークを揺らす真っ黒な帆が、巨大な船を押し進めている。
広大な大海原を切り拓き進む海賊船の名は”フィーアダリグ”。とある大陸に伝わる赤毛の英雄の名を掲げるその船の船首に、同じような燃える二尾の赤毛を揺らす少女の姿があった。
船の行く先を見つめる少女の表情はどこか悲しげで、しかしそれについてあえて言及するものは居なかった。理由は簡単、口に出したら最後、少女の鉄拳を受けることになるからだ。
そうして誰にも邪魔されずに頬を掠める風を楽しんでいた彼女に、シグナルレッドの服によく似合う長い金髪の女が近づく。
「船長……本気ですか?」
「ああ、本気だよ。……あんた達には悪いことするね」
「いえ……この海賊団は、船長のわがままの下に始まったもの。今更文句を言うようなヤツは居ない筈です」
「あははっ! 言うじゃないかドレープ!」
先程まで見せていた表情とは打って変わって、あっけらかんと楽しそうに笑う少女。今度は反対に、ドレープと呼ばれた女のほうが、寂しそうに目を伏せた。
「ほんと迷惑かけるよ。でも最後のわがままだと思って聞いて欲しいんだ」
大分傾いてきた、澄んだオレンジ色の太陽に目をやる少女の横顔には、それと同じ色が濃く投げかけられる。
この時期に彼女の故郷で咲く、小振りの花を思い出させるその色は、太陽に率いられながら海の青と溶け合っていく。
「船長……」
「そんな寂しそうな顔しないでよ。逝き難くなるでしょお!」
少女は、長年付き合ってきた部下とは思えないほど情けない顔をするドレープの金髪を、まるで赤ん坊でもあやすかのように撫でる。
「やらなきゃいけないことがあるの。やりたいことがあるの。あたしの弟が居るっていう噂も聞いたし、行かなきゃいけないの」
弱冠16歳とは思えぬほど大人びた表情で語る少女の口ぶりには確固たる覚悟が篭められていて、しかし直後に、
「まっ別にそーんな大層なコトよりも、ただロマンの匂いがするだけっていうのがほんとの理由なんだけどね〜」
と、からりと取り繕うそんな彼女の笑顔が、一層女の悲しみを煽った。
「アタシはっ…………アタシは! 貴方と出会って……貴方に救われて、貴方に……沢山のものを貰いました。ずっと貴方に仕えていたい! それを許してください!」
「だめ。あたしが言えることじゃないけど、あんたまで居なくなったら、今度は誰がこの海賊団を率いるって言うのさ。あたしの我侭なんかについてきた、バカで優しい奴等をさ」
真剣な瞳で語るが、それでも縋りつく女の姿は正に子供のそれで、少女はしょうがないなあと笑った。
「ドレープ、あたしの名前を呼んで」
「……ち、チコチカ、船長……」
「うん、上出来。勝手だけど、あたしはあたし求めるロマンの中で死ねるなら本望だよ。それに、必ずしも最後ってわけじゃあないさ。死ぬと決まったわけじゃない。あたしなら大丈夫。
 今まで何度修羅場を潜り抜けてきたと思ってんの! きっとまた会えるよ、ドレープ。だからそのときのために、いつものように、あたしの帰る場所を用意しておいてほしいんだけど、ダメ?」
今度は無邪気な子供の笑顔を浮かべる16歳の船長の翡翠色の瞳を、彼女より十も年上のその部下は、潤んだ紺碧の瞳で覗き込んだ。
「…………はい、船長。わかりました」
「ん、ドレープはいい子だね。今まで有難う」
「でも約束してください……必ず、必ず、再びこの船に帰ってきてください。船長の大好きなシチューを用意して、待っています」
「あはは、まったく困ったね〜こんなに船長思いの部下が居るなんて、あたしは幸せ者だ! ありがとう、ドレープ」
湿っぽい別れが苦手な少女も、このときばかりは自分を慕う可愛い部下を抱きしめないわけには行かなかった。
どれくらいそうしていただろうか、彼女は自分を呼ぶ声を遠くに感じ、再び船首の向こうを目を遣る。
「あんたと再会することを、どれだけ望んだことか。感謝しな、ライグ! お姉ちゃんがきてやったぞ!」
不敵な笑みを浮かべる、アンヌーン海賊団の船長――――チコチカは、その眼前に広がる光景を見据えた。
――――すっかり染め上がったオレンジ色の空に、堂々と聳え立つ大樹。
その加護の元に広がる海都アーモロードに、今日もまた、夕暮れが訪れる。

これは、自由に生き自由に逝く、少女の話。





この少女は間も無く死んでしまうのだろう。
朝日のように輝く長髪を風に煽られながら、少年は眼前にうつ伏せに横たわる少女を見下ろした。
「はあ、あっ……く、っは…………ッ!」
決して浅いとは言えない傷が、少女の日に焼けた肌の至る所に生々しく自己主張をしており、そこから滲み出る血が、その身体をまだらに彩っていた。
薄汚れたぼさぼさの黒髪が好き勝手に地面に広がり、ところどころに泥と血がついているのが僅かながら目に付いた。
庇うようにして体の下に隠している右腕からは、彼女が息をするたびに夥しい量の血が噴出した。
医術に関しては素人の少年にも、致命傷と呼ぶには十分だろうと分った。
しかし、今にも消えそうな命の灯火を必死に繋ぎ止めながら、それでも少女の漆黒の瞳は強い光を宿し、隙を見せれば忽ちかみ殺されてしまうと錯覚するほどの憎悪を孕んでいた。
「……ッ何見てんだよッ! 消えろっ死ねッ!! お前達人間みんなッ……死んじまえばいいんだッ!! 」
躾の成っていない頭の悪い犬のように歯を剥き敵意をさらけ出して、少女が吼える。
ぶしゅう、と耳障りの悪い音と共にどくどくと湧き出る血などお構い無しに、自分を見下ろす逆光で顔も見えない影に向かって、彼女は吼え続けた。
「死ねっ死ねっ死んでしまえ! 消えろ! 消えろよ蛆虫野郎があッ!!」
掠れた叫び声が、日暮れの森に響いては消えていく。
少年はただ、額に脂汗を浮かべ、ゆるゆると蒼白になっていく少女を見下ろすだけだった。
この少女は間も無く死んでしまうのだろう。再び、少年は思った。
「消えろ……消えてよ……! あたしを……ッ! 見ないでよおっ……!」
次第に少女の声から怒気が消え、その代わりに痛ましい懇願の言葉へ変わっていった。
必死に溢れる涙を止めようと、血塗れの左手で顔を覆い唇をかみ締めながら、彼女は言葉を紡いだ。
「もう……嫌なの!! こんな惨めな自分が生きているのが、嫌なのッ!! 見られたくないの!! もうあたしを、あたしを見ないでよ……ッ!」
汚れた頬を、汚れた涙が伝い、そのまま地面に滴り落ちて、小さな小さなシミを作る。
血と涙と泥でぐちゃぐちゃに汚れた少女は、微かな泣き声を上げて、最後の生を終えようとしていた。
次第に力が抜けていくのをはっきり感じながら、彼女が何処か意識の奥のほうで何かを諦めかけたとき、少年が不意に膝を突いた。
「死にたいのか?」
投げかけられた問いに、少女は唇に意識を集中し、ゆっくり答える。
「……もう、いいの……こんなバカな人生なんて、何の価値も無いの……」
「お前の人生の価値なんて聞いていない。今お前が、死にたいのか、生きたいのかを聞いている」
まるで突き刺さるような冷たい声音が、びくりと少女の身体を震わせる。
自分よりも年下であろう少年の言葉が酷く重く、そして恐ろしく感じられて、彼女の口は何も言葉を為さないまま、僅かに息を漏らすばかりだった。
「……戦争に駆り出される為に生かされて、必死に戦った末に大敗して、命辛々逃げてきたら今度は一般人に殺されかけて、……そんな人生に、意味なんて、価値なんて、無いの」
「そんな事聞いていないと言っているだろう。価値なんてどうでもいい。お前が今どう思っているか、それを聞いているんだ」
漸く発した言葉を、少年が真っ向から突っぱねる。いっそ惨めさを極めきっていると感じて、少女の閉じた瞳に再度涙が溢れた。
「もう、そんなこといいでしょう……ッ!! 消えろ!! あたしのことなんて放っておいて――――――」
言葉を言い終わらないうちに、唐突に少女の顔を覆っていた手が引き剥がされる。
思わずハッと顔を上向ければ、その時初めて、彼女は少年の艶やかに輝く赭色の瞳を見た。
美しい顔立ちに息を呑む彼女の傷だらけの頬に、優しく手を這わせて、少年は3度目の問いを投げかけた。
「死にたいのか、生きたいのか」
真摯な瞳に射すくめられ身動きが取れない少女の胸の奥で、何か温かいものが弾けた。
途端に広がる、生命の波。
「――――生きたい、……本当は、生きたいの…………っ!!」
溢れ出てくる気持ちのままに泣き叫べば、自愛に満ちた表情の少年が、少女を優しく抱きしめる。
崩れ落ちるように少年の腕に縋りつき、彼女は何時までも、何時までも泣き続けた。

これは、生を手にし呪縛から解き放たれた、少女の話。